私も還暦を過ぎ、資産形成もだいぶ終盤に差し掛かってきました。
ここからはあまり極端な利益追求はせず、どちらかというと資産の価値を保存する(減らさない)戦略にシフトしていこうと考えています(徐々にですが)。
老後に頼れそうなのは金融資本のみ
この段階にさしかかりますと、どうしても気になりますのが例の「DIE WITH ZERO」という言葉です。
資産は死ぬまで抱えていくのではなくて生きているうちに有効に使いましょう、という主張はある程度納得感があります。老後もやりたいことを極端に我慢し、死に間際に「DIE WITH MAX」では悲しすぎますからね。
しかしだからと言って、私の場合はあまり真面目に「DIE WITH ZERO」を追求しようとも思いません。
それはなぜかと考えてみますと、私の場合は後期高齢者となった頃には周りに頼れる人が居ない可能性が高いという点があります。
親は当然先に逝っているでしょうし、結婚していませんので配偶者や子供にも頼れません。近親者という点で唯一頼れそうなのは姉とその子供たち(甥姪)ですが、姉は先立っている可能性がありますし、そうでなくても甥姪は自分の親のことで精いっぱいでしょう。
また私の場合は、その他の社会的資本(知人や友人)も貧弱という点も泣き所です。
その頃には人的資本(自分の能力で稼ぐ力)にも期待はできなさそうですし、そうなりますともういざという時に頼れるのは金融資本しか残っていないのです。
金融資本は究極の保険
ちなみにこういう将来発生する可能性のある自力で解決できそうにない問題に対応する手段として、保険というものもあります。
医療保険は想定できない病気やけがで高額医療が必要になった場合に対応するもの、自動車保険は万一の重大な事故による高額賠償に対応するもの、といった具合です。
公的年金なども、想定を超えた長生きに対応するものと考えれば保険的な側面がありますね。
ただこの保険というものの重大な弱点は、その保険で想定されていること以外に対しては全く無力であるということです。
これに対してある意味究極の汎用性を持っている保険とも呼べるものが金融資本です。金融資本は一般的な保険のように掛け金の何倍もの保障は受けられませんが、その代わりに自分の好きなタイミングで好きな用途に使えます。
病気になれば治療に、高齢で住むところが無くなれば替わりの家探しに、介護が必要になれば介護費に、などなど。この汎用性が最大の魅力です。
また高齢になればなるほど、やること成すことに失敗の可能性が高まります。賃貸や住宅購入、そして介護施設の申し込みなどには契約が付き物ですが、高齢になればなるほど契約書の精査は困難を極めます(うちの母親などは先日の国勢調査ですら、回答を私に丸投げしてきますw)。
そういう時資金がギリギリしかなければ、不安があっても一発勝負するしかありません。しかし資金に余裕があれば、最悪リトライすることも許されるのです。そして一度経験したことは、リトライ時の成功率が格段に上がります。これも失敗に対するある種の保険と言えるでしょう。
というわけで私は、老後に発生するであろういくつかの重大局面に対応し、そして万一それに失敗してもやり直せるだけの余裕を確保しておくため、「DIE WITH ZERO」は目指さないと思います。
いわば「DIE WITH MARGIN(余裕)」というところですかね。