昨日は彼岸の中日ということで、父親が信仰していましたお寺に行ってきました。
初の彼岸会参加
私はこのお寺の宗旨とどうもそりが合いませんので、普段は父親の葬儀・供養に直接関係することを除いては極力関わらないようにしています。
しかし母親の方が父親の後を引き継いでかなり頻繁にお寺に出入りしていますので、そう簡単には縁は切れません。
またうちの場合は父親のお骨をお寺の納骨堂に納めさせてもらいましたので、今回の彼岸会(ひがんえ:お彼岸の法要)はお墓参りの替わりだと言われれば、行かないわけにもいきません。
お寺に付くとかなりの信者さんが集まっていて、法要開始時刻の少し前になるとご住職が本堂に入ってお経を唱え始めます。信者も合わせてしばらく読経が続いた後、信者が順番に仏前でお焼香をしてからまたしばらく読経です。
その後、ご住職からの法話を聞くことになりました。この間 1時間半ほど、それなりの時間ですがまあここまでは想定の範囲内です。
仏歌の斉唱と誓いの言葉の合唱で一気に冷めた
このような雰囲気ならたまにはお寺に参って父親をしのぶのも良いかなと思いかけていましたが、その後の出来事で一気に現実に引き戻されました。
それは何かというと、まずその宗旨の歌である仏歌の斉唱です。「ああ、我ら栄えある○○宗徒~」というような歌詞をみっちり2番まで信者全員で歌い上げます。
これであっけに取られていたら、次は本堂に掲げられています大きな額に書かれた誓いの言葉の合唱です。こちらも「毎日お題目(お経)を唱えます。信者増進に努めます。法統相続(親の信仰を子に継がせること)に努めます」というようなことを全員で延々と唱え上げます。
これらはいずれも信者の結束を固くし、信者を増やすことを目的としているのだと思いますが、私のようなやや斜に構えた人間からすれば完全に逆効果です。
初めから信仰心の厚い人であればこんなことをしなくても熱心にお寺に通うでしょうし、逆に信仰心の薄い人からすればこんな行為は一歩間違えれば新興宗教が行う洗脳行為に近い印象を与えます。
実際私はその場で止む無く周囲に調子を合わせながらも、大きな違和感を感じざるを得ませんでした。昔から続く伝統的な仏教の宗旨がここまでやる必要があるのでしょうか。
この宗旨とはやはりある程度距離をおいておきたいなあという思いを新たにしながらも、信者さんとの付き合いも大切にしている母親のことを思うと、どうしようもない板挟み感を味わうことになった一日でした。
個人的には自分の葬儀・供養については、最近見かけた山崎元さんの以下の記事のようなお寺抜きの内容で十分ではないかと思うのですが、親の世代の常識ではなかなかそうもいかないのでしょうかね。
ええ、それはドン引きですね。
僕も父親の10回忌まで付き合いましたが、ほんと面倒で面倒で、しかも東京からわざわざ長距離をこなすわけですから、ほんとげんなりでした。
13回忌はさすがに断りましたよ。それ以降はやってないぽいですが。